1974

 私の郷里は(宮城県玉造郡一栗村上野目天王寺)――奥羽山脈と北上山脈との余波に追い狭められた谷間の村落である。谷間の幅は僅かに二十町ばかり。悉く水田地帯で、陸羽国境の山巒地方から山襞を辿って流れ出して来た荒雄川が、南方の丘陵に沿うて耕地を潤し去っている。
 南方の丘陵は、昔、田村麻呂将軍が玉造柵を築いたところ。荒雄川の急流を隔てて北方の蝦夷に備えたのであろう。後に、伊達正宗の最初の居城、臥牛の城閣がこの丘の上に組まれ、当時の城閣を偲ばせる本丸の地形や城郭の跡が今でも残っている。
「栗駒おろし吹きなびく
 臥牛城下に生をうけ
 残されたりし英雄の
 ……」
 私達は子供の時分、そんな歌を歌った。

 その線は、山脈に突き当たって、そこで終わっていた。そしてそのまま山脈の貫通を急がなかった。
 山脈の裾は温泉宿の小さい町が白い煙を籠めていた。停車場は町端れの野原にあった。機関庫はそこから幾らか山裾の方へ寄っていた。温泉の町に始発駅を置き、終点駅にすることは、鉄道の営業上から、最もいい政策であったから。
 終列車を牽いて来た機関車はそこで泊まった。そして翌朝の最初の列車を牽いて帰って行った。
 終列車の機関車には、大抵、若い機関手が乗って来た。そして同じ顔が、五日目毎ぐらいの割に振り当てられていた。それは若い独身の機関手達の希望からであった。その出張費が、ちょうど、温泉の町での、一晩の簡単な遊興を支えることが出来たから。

 靄! 靄! 靄!
 靄の日が続いた。胡粉色の靄で宇宙が塗り潰された。そして、その冷たい靄ははるかの遠方から押し寄せてくる暖かいものを、そこで食い止めていた。食い止めて吸収していた。
 靄の中で桜の蕾が目に見えて大きくなっていった。人間の感情もまた、その靄の中で大きくなっていく桜の蕾のようなものだ。街の人たちはもう花見の話をしていた。
 靄が濃くなり暖かくなるにつれ、桜の蕾がその中でしだいに大きくなっていくように、人間の感情もまたその雰囲気の中でしだいに膨張する。前田鉄工場の職工たちの感情もまたそうだった。従前どおりに続いていく雰囲気の中で彼らの要求感はしだいに膨張して、弾けようとする力を持ちだしてきていた。